四代流派

空手は、現在 多くの流派があり各流派において、独特の形態があります。おもに大きく分けると、伝統派フルコンタクトに分けられます。ここでは、伝統派と呼ばれている流派を紹介及び解説します。

剛柔流
創始:宮城長順(みやぎちょうじゅん)1888〜1953

宮城長順は、師より中国福建省で中国拳法を修行するように命じられ、明治36年、当時16歳の若さで単身中国へ渡りました。中国において、宮城師範は、中国拳法の多くの達人達より血のにじむような荒稽古を受けるとともに、古い書籍などにより理論的にも研究され、帰国されてから中国拳法と手とを比較検討して、剛柔流をあみ出しました。剛柔流の名称は、中国古文献の武備誌から抜粋されたもので、拳の八句、法剛柔呑吐に一句で、法は剛柔を呑吐するという意味から剛柔流を名のられました。

おもな型:「三戦(サンチン)」「砕破(サイファー)」「制引戦(セイエンチン)」「四向戦(シソーチン)」「三十六手(サンセーリュウ)」「十八手(セイパイ)」「久留頓破(クルルンファー)」「十三手(セイサン)」「壱百零八手(スーパーリンペー)」「撃砕T」「撃砕U」「転掌」などがあります。

糸東流
創始:摩文仁賢和(まぶにけんわ)1889〜1952

13歳の頃より糸洲安恒のもとで、首里手の修行を始めました。19歳の頃、東恩納寛量のもとで、那覇手の修行を始め琉球古武術である、棒術、サイ、トンファ、鎌、ヌンチャクなどを、新垣師範に学び1915年、糸洲安恒、東恩納寛量より、空手免許皆され1929年、大阪に移り、多数の大学および警察学校にて、指導を行うようになり1934年、糸東流を興し創始となりました。

おもな型:「松風」「心波」「腕秀」「公相君小」などが、あります。


松濤館流
創始:冨名腰義珍(ふなこしぎちん)1871〜1954

冨名腰義珍は流派名を正式には名乗らなかったと言われていますが、道場名だった松濤館が義珍の弟子達によって松濤館流となりました。 ちなみに松濤館は昭和14年頃に建設された。義珍はそれ以前にも別の場所で空手を教えていました。冨名腰義珍が空手の修行を始めたのは、小学校入学の頃であったと伝えられています。父の親友、首里手の安里安恒に就いて稽古したといいます。義珍は医学の道を志したが叶えられず、教員になったといわれ、教員になってから数年後、那覇手の湖城大偵に師事したと伝えられていますが、数ヶ月で修行を諦めたといわれています。大正8年頃、師範学校の生徒らに課外授業として空手を教えたといわれています。大正10年、沖縄にて昭和天皇の前で空手を披露しました。大正11年、文部省主催体育展覧会にて空手を披露。このときから本土に引っ越してきました。 同じく大正11年、嘉納治五郎の要請を受け、講道館で空手を指導します。大正14年、慶応義塾大学に本土で始めての空手部を作りこれを機に早稲田・法政・東大等に空手部が誕生します。義珍は大正10年に「唐手」の文字を「空手」に変えたと言われています。また型に漢字を当てはめたのも義珍と言われています。

おもな型:「二十四歩(ニーセーシ)」 「鉄騎初段」 「壮鎮」 「五十四歩大」 「慈恩」 「抜塞大」などがあります


和道流
創始:大塚博紀(おおつかひろのり)1892〜1982

幼少時代虚弱体質のため幼いときから叔父 旧土浦藩武術指南役 江橋長次郎に柔術を稽古させられていました。明治38年「神道揚心流柔術」の門を叩きました。 明治43年4月18歳の博紀は、上京。 その後頭角を表した博紀は、大正9年6月1日同流派の免許皆伝を允許されました。大正11年、当時「沖縄唐手」が復旧し始めており、博紀は、以来唐手の研究に没頭し創意工夫の据え、沖縄 唐手と古流柔術の良いところをあわせた神州和道流空手術を興し創始となりました。


おもな型:「平安弐段」 「平安五段」 「公相君」 「ナイハンチ」 「セイシャン」 「チントウ」などが、あります。