フルコンタクト空手

ここでは、フルコンタクト空手を解説及び紹介していきます。フルコンタクト空手とは、国際空手道連盟極真会館総裁である故・大山倍達が、従来のポイント制 寸止め空手に違和感を感じ実際に相手に打撃をあたえなければ意味が無いと、一撃必殺の実戦空手を興し創始となりました。この大山総裁は、漫画やアニメーション(空手バカ一代)のモデルにもなり 過去の輝かしい実戦経歴もともない少年達のカリスマとなり一代空手ブームを巻き起こしました。しかし大山総裁が、亡くなってからは、各派閥ができ 各団体において大きく成長していっています。その他にも伝統派からフルコンタクトルールを採用する団体や少林寺拳法からフルコンに変わった団体など最近では、空手といえばフルコンタクト空手を連想するほどに成長してきています。


大山倍達:全羅北道 金堤郡(現:金堤市) 龍池面 臥龍里にて、父・崔承玄と母・金芙蓉との間の6男 1女の第4子として生まれました。本名は崔永宜 他にも崔猛虎、大山虎雄、崔倍達(チェ・ペダル)などを名乗っていた事もあり。日本名にも使った倍達とは、朝鮮の説話に登場する伝説上の古代王朝、倍達国からだそうです。幼少期は満州と朝鮮半島で育ち、16歳で日本海軍の航空兵として山梨県の航空学校に入隊、特別攻撃隊員として終戦を迎えました。拓殖大学司政科卒業、早稲田大学体育科中退。空手は、1938年9月に船越義珍に入門、その後松濤館流と剛柔流を主に学び、終戦後は千葉の清澄山などでの山籠りの修行。1947年に京都で開催された戦後初の空手道選手権で優勝。1952年、柔道の遠藤幸吉四段と渡米、1年間ほど滞在して全米各地で空手のデモンストレーションを行いながら、プロレスラー、プロボクサーと対決し全勝する。ビール瓶の首から上の部分を手刀で切り落とした時、周囲は驚嘆し「God Hand」と形容したそうです。 帰国後、猛牛を倒し(合計47頭、うち4頭は即死)、その映像は映画『猛牛と戦う空手』として公開された。世界各国を渡り歩いてさまざまな格闘技を研究し、直接打撃制の空手(フルコンタクト空手)を作り出した。このエピソードは、梶原一騎原作の劇画『空手バカ一代』などに描写されている のちに大山道場から国際空手道連盟極真会館を興し創始となりました。(Wikipedia引用)

おもなフルコンタクト団体:極真会館(松井派) 新極真会 極真連合会 正道会館 白蓮会館 格闘塾
内田塾 真盟会館などがあります。