空手の歴史


空手は、沖縄で生まれたというのは、既に知られているところですが、では、どのようにして誕生したのでしょうか?それは、もともと古くから沖縄に伝わる(ティーと読む)という武術と中国から伝わってきた中国武術とが融合し誕生したとされています。

沖縄でその空手が体系化し広まった原因には、当時の琉球国の王である尚真王(しょうしんおう)が、儒教による中央集権化による禁武政文治を始めるにあたり武器の携帯を禁じたのと、薩摩藩による琉球侵攻に対して、武器を持たずに戦える武術を身に付ける必要性に迫られてのことのようです。そして空手は、一子相伝の秘術とされ表に出ることは、ありませんでした。

その後、明治後期 首里手(しゅりて)「松村宗棍(1809年〜1899年)」、泊手(とまりて)「松茂良興作(1829年〜1898年)」、那覇手(なはて)「東恩納寛量(1853年〜1915年)」などの中興の祖により近代空手の元となるかたちに体系化されました。

またその後、糸州安恒(1831年〜1915年)によって、まとめられた唐手十ヶ条が沖縄県学務課に提出され、唐手は学校体育で、取り入れられるようになり、一子相伝の秘術から近代的スポーツ空手となりました。


首里手首里手は、泊手、那覇手と並ぶ、唐手の三大系統の一つであり、主に琉球王府のあった首里に住む琉球士族によって行われたものである。もともと空手発祥の地・沖縄では、琉球王国時代は空手の流派というものは存在せず、主に空手が盛んな三地域の地名を冠して、首里手、泊手、那覇手と呼ばれていました。一般に、首里手は柔軟性重視の要素があり首里手の代表的な型には、ナイファンチ、バッサイ、ピンアン、クーサンクーなどがあります。
首里手の代表的な空手家としては、佐久川寛賀、松村宗棍、糸洲安恒、安里安恒、本部朝勇、本部朝基兄弟、屋部憲通、花城長茂、船越義珍、喜屋武朝徳、知花朝信、摩文仁賢和、遠山寛賢
などがいる。
首里手の流れを汲む空手の流派としては、松濤館流、和道流、糸東流、本部流、小林流、松林流、少林寺流などがある。
泊手泊港には琉球王府による交易船乗務員の宿舎があったことから、泊の人々は外国人との交流の中で独自の手を生み出した。一説によると、山東省からの漂着民が伝えたと言われているが、確証はなく、首里手や那覇手に比べると歴史背景はかなりあいまいである。技術的には「チャタンヤラのクーシャンクー」などの型を残しているが、代表的な名人である松茂良興作でさえ、首里手と並行して学んでいたりと、泊手のみの伝承者は無に等しいとされています。よって、松茂良興作が、中興の祖とされています。
那覇手那覇の港は貿易港として栄えていました。そこに多くの中国人が行き来していたため、武術の交流も盛んに行なわれていました。那覇手は中国南派拳法の影響を強く受けて発展した剛柔流に強く影響した「武備誌」はまさに南派拳法の教本であり、その強い関係を表しています。 那覇手からは上地流や劉衛流などが出ましたが、中でも最大派閥として発展したのは、宮城長順によって創始された剛柔流でしょう 那覇手は琉球唐手の核であり、その那覇手の核とも云えるのが三戦(サンチン)という型であります。



宮城長順冨名腰義珍

1900年代 松濤館流創始である冨名腰義珍や 糸東流創始である摩文仁賢和、 上地流創始である上地完文、 剛柔流創始である宮城長順等によって日本全国にも紹介されるようになりました。もともと空手は、投げや関節技等を含んだ総合格闘技であったのですが、本土に空手を紹介するにあたり 本土には既に柔術や柔道といった武術が存在していた為、空手を打撃技中心の武術として紹介されました。

摩文仁賢和上地完文


この頃、唐手より空手と変わったとされています。この理由には、中国との問題や素手で戦う武術という意味など色んな説があります。